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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 海の漁火

小説    海の漁火
                 今田  東
        序        

 夜中にふと目が覚めて五体の重さを感じる。
 それは歳だと言う概念として受け止めなくてはならないように思う。
 最近しきりと昔の事を思いだして懐かしくこころを熱くした日々を思いだしている。人はこの歳になると過去へタイムスリップをする事が出来るのか。
 見るのは幼い頃のことと青春時代の物が多い。それは苦しくても楽しかったもの、そんな時の巡りのなかの物が多い。歳を取ると過去への回帰が起こり記憶の欠片がこぼれおちてくるものなのか。
 その欠片らから沢山の物語を紡いできた。それらのほとんどは自分のために書いたものなのだ。何も人さまに読んでもらおうという意識はない。もっと歳を取ったときにでも振り返す縁になればいいという事なのだ。
 言い変えればそんな時代を生きてきたという事なのだ。
 戦中に生まれ戦後に子供時代を過ごし復興と高度成長のただ中を通り越してきたその中で何を考えて何をしたのかを書くことで問いただし反省も責任も自覚することにしょうと思う。これは一人の少年があるいた足跡なのだ。

     Ⅰ
 はっきりと年月は覚えていないが、何時だったか、五十歳代の後半であったと思う。小学校の同窓会が幹事などの労苦で催された。後楽園の北、西大寺への新しい道が出来たそのわきのホテルで行われた。当時は、子供のころには何もない田んぼだったが開発されて最新式の街づくりが行われていた。面影を残している懐かしい同窓達が沢山集まっていた。
そのころ、文化庁の手伝いで東京に出向くことが多くなっていた、篠田正浩監督の映画の手伝いもしていた、子供たち五十人とともに演劇を創っていた、新聞に小説やコラムを連載していた、その忙しい時間を調整して皆に逢うのもまたいいかと言う軽い気持ちが参加した。
 育った町の様変わりに驚いた。東京の変化にはさほど驚かなかったのになぜだったのだろう。そういえば岡山市にはずいぶん来ていない事を思った。その姿は子供のころのまま私の心にあったのである。そのまま、時代はとどまってはいなくて開発され続けていたという事だ。
 出席している皆の服装は背広を着ていて、しっとりとした洋装を着こなしていた。あのころの、戦争後の貧しさを感じさせていなかった。確かに生活は飛躍的に高くなっていたが、日本人の古来から伝えられた精神はどうか。
 司会役の友が流暢に話し進行させていく。恩師の紹介、幹事の挨拶のあと酒と料理が並ぶ。各教室に分かれたて会食とおしゃべりが始まる。久闊を叙すると言っても相手をよく見ないと、その面影を探しながらの話になる。
 省三の場合、小中高と殆ど勉強などしていなかった。みんなを笑わせる役どころを演じていた。色々とその当時の話に花が咲いていく。其の度に走馬灯のようにその風景がよぎる。子供のころに帰ったような感覚にとらわれていた。
 恩師、省三には恩師はいなかった。そのころは分限者、勉強のできる子だけが特別に扱われ贔屓されていた。そんな中でもついていけない、落ち零れはいなかった。そんな教室が思い浮かんでいた。
 次々と司会者によって名前を呼ばれ壇上に立って、今、何をしているのかと言う話を始めていた。そこに上がる同窓は人生の成功者のように見えた。自慢話である。
 省三の過去と現在を知る人達は一人もいないと思う。集まった人達の中でも異色の人生を歩み現在がある。それぞれがそれぞれの生き方で現在があるのだと思う。その苦労の結果を報告していると思えば多少大袈裟な話も笑っておられる。あれから四十年も過ぎている。それぞれが自分の思いで生きて何かを感じながら創り上げたものを大切にしているのならそれは尊いことだと言う認識はある。それを許し合いめでるのもこの会のよしとするところなのかも知れない。
 省三は酒をたしなまない。東京の銀座や筑地で遊び岡山に帰って来てからは辞めていた。
 テーブルを囲んだ人達にはにこにこと笑って相槌を打っていた。
 面影のある女性が私に近づいて声をかけた。面影を遺した戸田冴子であたった。
「先生」
 その言葉にテーブルの人達は省三の方を見た。
 冴子は自分が服装デザイナーの仕事をしていて省三に逢ったことがあると言った。周囲の人達はシーンして耳をそぱ立てていた。そもそも省三を先生と呼ばれることに違和感を持っていたので余計に興味をそそられたらしい。
「あの時、面影を・・・、人違いなのかも知れないと声をかけられませんでしたの」
「ですが、今日ここで、少し席は離れていますけど、あの時の面影と重なりましたの」と、
 冴子は続けた。
「東京で、ですか、悪い事は出来ないな」
 省三は嘲笑していた。
「ここにいる人達はみんな先生の存在を知らないことでしょう。ペンネームで生きてこられていますものね」
「今は、遊び人、やくざな生き方をしていますが…」
 やくざなという言葉に周囲が緊張していくのが分かった。
「ご謙遜…。今日帰って出席をした甲斐がありましたわ」
「おいどういう事なんだ」
 隣に腰かけていた友が大きな声で言った。テーブルがざわめいた。
 司会者の友があわてて近寄り、
「なにらか不都合なことでもあったのか」
と問いただしてきた。
「いや、済まない。申し訳ない。坐を乱してしまった事を謝りたい」
「いいえ、ことの発端は私が…」
「いいえ、私がこなければよかった。正直にまじめに生きている人達のなかに入るべきではなかった」
「それはどういう事なのだ」
 司会者の友が少し気色ばんで言った。
「悪い。昔の同窓生がどのように暮らしてきたか、懐かしく感じたかったという単純なことなんだ。皆が健康で幸せな姿を見ただけでうれしかった。私はみんなのように勤勉でもなく正直でもない生き方をしてきた。みんなの邪魔をしたのかも知れない。許してほしい」
 省三は心の赴くままに言った。それは詭弁の入りこむこともなかった。
「何を言っておられるのですか、先生、いいえ、今井さんの事をみんな知らないだけ。騒ぎを作ったのはこの私、懐かしくて、いいえ逢いたかったと言うべきなのかも知れません。
私の仕事柄、今井さんの事はよく存じ上げているけれど、子供のころにすれ違っただけの仲だったけれど、こうしてお会いできたことにこの会を作ってくださった人たちに感謝しているのです」
 冴子はそう早口で告げた。
「先生、今井君は東京では先生と呼ばれているのか・・・」
「もういいから、今日来た事で皆が元気でいることがより分かったなら、満足している」
「おい、逃げないでくれ。みんなにこの事をどのように話せばいいか教えてくれ」
「先生、いいえ、私にはひょうきんな頃の今井君と呼ばせてね。ペンネームを使って、写真嫌いでおられたのでここまで届いていなかったと思うけれど、劇作家さんで活躍をしておられたのよ。小説もお書きになられ、映画の仕事もされておられて、今は奥さんの故郷倉敷で子供たちを集めて色々な活動をしていると聞きましたわ」
 冴子が全部ばらしてしまっていた。
「知らなかった、それは届いてないぞ、みんな今井はどうしているのかと心配をしていたくらいだった」
「ありがたい、それだけで十分うれしいよ」
「何か喋ってくれ、こんなに有名な同窓生がいて、光栄だよ」
「華やかに、賑やかな世界に生きていて、昔は人を笑わせることしか能のなかった子供が、大きくなるにつれ沢山の人の前に出ると恥じらう事を知ったという事なのだ、その世界から逃げ出して田舎に暮らしている。今日こさせてもらったのも皆に逢いたかったから、子供の子に帰りたかったのかも知れない。目的は達したから、迷惑にならないように席を立つよ」
「待ってくれ、話をしろとは言わない。ここに集まった友と一緒に時間を共に過ごしてほしい」
 そんな会話があって、
「分かった。私をあの頃の今井と見てくれるなら…」
「わかった。みんなあの頃、雨漏りのする校舎で肩寄せ合い勉強し、カチカチの校庭で転びながら遊び、ポプラ並木の下で涼を取り、コッペパンを頬ばり、脱脂乳を呑んだ仲間としてここに集った事を、その健康を祝う事にしたい、いいか」
「異論はない、だけど特別扱いは辞めてほしい、それぞれが懸命に生きた事を、そして今がある事を喜びたい」
 そのやりとりはすぐに会場のみんなにひろがっていった。
 みんなが今健康であることを心より喜んだ。
 省三は参加した事の喜びを感じていた。
「今井君、時間があったらお話をさせてください」
 彼女が耳元で小さく言った。
「ここでは駄目なの」
「少し相談が…」
「早めにお邪魔して、ロケの現場に行くことになっている」
「そこを・・・。なんでしたら今度文化庁のパーティーの帰りにでも時間を頂けません」
「その事も知っているの」
「今井君は、あの頃の私の思いを知らなかった…」
「え・・・」
「みんなお腹をすかしていた、そんな中、みんなを笑わせることで皆に勇気を与えていた。この人は何かをする人だと思っていました」
「勉強ができない僻みがあった・・・」
「そうかな、でも私はそんな今井君をじっと見ていたの」
「今があるのは偶然・・・」
「それは嘘、中学で猛烈に追い上げてクラスでもトップに届くまでになっていたでしょう」
「分かった、時間を作るよ。今日は駄目だけれど・・・」
「朝倉摂先生とは御昵懇でしたでしょう」
「え、その事なの」
「その事もまた、きょうはうれしかった、初恋の人に逢えたのですもの」
 冴子は頬を赤くして言った。
 その後も省三は席に座り続けていた。

「今井君は、国語の勉強はできたのだったかな」
 小学校の担任だった先生が省三の前に来て言った。
「いいえ、漢字を見るのも嫌でした。人間なんてふしぎなもので、切羽詰まれば我武者羅になることができるものだと知りました」
「そうか、でも立派になって私もうれしいよ。がんはってくれたまえ」
「私は自分流を貫きます。それをやってきましたので、それしかしりません」
「そうか、そうなんだね」
 そういって肩を落として席に戻っていった。
 省三は借りてきた猫のようにそこにうずくまるように座っていた。
「今井君でいいのかな、少し教えてほしいのだがいいかな」
 かなり飲んだのか、酩酊していた。
「なんでしょう、答えられればいいが」
「あのね、うちの下の娘が芸能界に入るというんだが…」
「はっきりといっていいのかな、三億円を用意できるか、下半身の理性がないか、それで決まることが多かった」
「ええ、」
 彼は絶句した。
「そんな世界の中で生きて今逃避しているんです」
「やめにしたほうがいいということなのかな」
「何が幸せなのかはわからないことですが、私にはそれしか言えません」
「そうなんだ、きれいに見えるが…」
「ありがとう、話してみるよ」
 彼はそう言ってよたよたと席に戻った。
「先生、私もその口で、今はデザイナーをやっています。一度は誰でもその夢を見るのですわ。絶望から立ち直るには時間がかかりました」
 冴子はため息をつきながらそう言った。
 そうなのか、この人も、私と同じであったのかと思った。
「なかなか、足を洗うのが難しい、が、別の道を見つけてという事ですか」
「よくご存じのことなのに…。一度スポットライトが当たるとその明りに群がる蛾のように…。疲れました、登っていく人落ちていく人それを見ていて恐怖心に苛まれて…」
「それも人生、自分が目指した夢、だが皆がその夢を見ることなく振り落とされる。…今、あなたの顔を見ているとそれを乗り切っているように見える…」
「やっと、ここまで。先生、少し外で御話をさせてもらえませんか」
 冴子はそう言って省三の手を引いた。会場の外には静かな空気が流れていた。そこにはソファーが置かれ会場で飲みつかれた人達を休ませる場所を作っていた。そこに導かれて腰をかけた。冴子は前に立って私を見下ろす格好だった。
「先生、ここからの景色、すっかり変わっています。まるで私のようです。・・・あの頃、まだ中学校に通っている時、家が近かったのでよくすれ違いました。父が鉄道員だったので官舎に入っていました。転勤で、小学六年で編入してきたのです。・・・さっきつい、言ってしまいました。あの先生の姿をみることがとてもうれしくまた苦しかった事を思い出して。倉敷におられる事は知っていました。私が東京からこの会になぜ来たのか、出席のはがきを書く前に先生の出席を尋ねました。ご出席になられると言う事で出席に丸を付けたのです。あの頃の気持ち、あの頃のまっさらの心を取り戻したくて、いいえ、先生にお会いしたくてと言う方が正直でしょう。あの頃に帰りたい・・・」
 冴子は切なそうに声を落として淡々と語っていた。
「いろいろとあったのですね。今、何もかも捨てて、思い出すのはあなたと一緒、何もなかったけれど生きているという実感、充実感は忘れた事はありません」
 省三は感慨深く言葉を落とした。

「あの駅の大きな銀杏の木、先生は書かれていましたね。あの時代あの頃の心の支えだったと、何ごとも受け止めて何があろうと動じない、すくすくとたくましく大きく育っていたと・・・。あの頃から目標は定められていたのですね。ひょうきんを装い、勉強も人の前ではしているようには見せず、心に色々な思いを落としておられたのですね。そんな先生の姿がとてもうらやましかった…。なにの束縛もない自由な生き方から今がある事を感じ取っています」
「何かあると、銀杏を眺めに行きました。夕日を背にして真っ赤に染まった銀杏の葉が、風がいたずらをするとはらはらと零れるのです、それを神にささげる献花のように眺めながら私も銀杏になっていました。励まし、情けをかけてもらいました」
「そんな、私はただ立ちつくしただけ…。先生の…」
「冴子さん、その先生と言うのは苦手なのです…」
「はい、今私の名前を・・・」
「覚えていました。同じ学級にはならなかったけれど皆が騒いでいましたから…今日集まった人達もあなたの姿を見て昔を懐かしんでいることだろう」
「また、そう言ってはぐらかすのですね。今井さんと言えば…」
「はい、その方があの頃に帰られます」
「人間は自然と共存するのではなく一体化するべきだ、だけど、自然の成長と一体化をするとなると大変な、泰然自若な心を持たなくてはならないと書いておられましたが…」
「その話は辞めませんか…」
 省三は窓の外へと視線を向けた。
「今井さん、今日、私は東山のホテルに宿泊することしています。お仕事が済まれたら・・・」
「私はそのような世界で生きてきたけれど・・・」
「分かっています、ただ、もっと御話を聞きたいと言うこと・・・」
「私もあの頃の戸田さんの姿を見て生きているという存在をありがたいと思ったこともあります。また、今日お会いしていい女性になられていることも実感しました。それだけでは駄目ですか」
「あの頃、私を見ていてくださいましたの」
「はい、きらりと光るものを受け止めていました。沢山の学生のなかにあってこの人は何かをするだろうと言う予感を感じていました」
 今、思い返してもあの頃の彼女は溌剌として輝いていた。男子生徒、女子生徒の注目の的になっていた。瞳は理知的で額は利発で、それらを持っていても性格はおとなしく見えた。
真の強さも、が感じ取れたものだった。
「冴子さん、私の様な世界に暮らして多くの人間の生きざまを不快に思わず容認してきた事は私の弱さであったのです。生き方は色々と様々でいい、それを持って社会で生きている、それが人間の環境なのだと言い聞かせてきました。あの時、友の自殺を契機にそれでは駄目だと考えを変えたのです。そして・・・」
「この社会、はいずりまわり泥だらけになって生きてきました。でも私は心だけは汚さないと言う事を本分としていたのです。今井さんの書く物を読んで生きる、命と言う事を考えました、あの、私の同窓生の人がこのように私の支えになっていてくれる、それも、初めて心を熱くしてくださり、本能を教えてくれた人と言う認識は常にあったのです。私も負けないで自分の事、しなくてはならぬ事をすることで近寄れると思ったのです」
「なんと言えば、私の耳にもあなたの活躍は届いています。強い心でなくては生き残れない世界のなかで…。私も人が愛すると言う事を書いていますが、それは真実そのようにあってほしいという願望なのです。はっきり言って私も男です、あなたとの思い出を作りたいと言う欲望は否定しません。が、それを望めば私が今まで書いてきたものを否定しなくてはならなくなる。倫理に縋らなくては私の存在は嘘になる。倫理を盾にしてなくては守れない…。私は今日、あなたに逢えたことで昔に帰りその当時の事が現実として認識出来たのです。冴子さん、ありがとう・・・」
「そんなお人だから、・・・切なくてうれしいのですわ。だから余計に思い出を欲しいと願うのですわ」
「私はもう東京には帰りません。この倉敷ですべて終わりにしたいと思っています」

「いつか書いておられました、愛されるより愛せよ。その愛こそが愛されると言う事だと・・・」
「あなたは私を攻めているのですか、人間は美しい花を毟ることも愛だと言う事を、またそれを窓辺に飾ることも愛だと言う事も、その二つの愛のあり方が、人間の本能かも知れません。そこに倫理と言う壁はそびえていますが」 
 そこまで言ったとき、
「おい、今井、お前のことでやかましくなっている。なんとかしてくれ。戸田ちゃん、二次会でその続きはやってくれ」
 司会者がわりこんで来てくれたので助かったと思った。
 顔だけ覗かしてそう言って急いで会場に帰って行った。
「そろそろ、私は御暇しょう。今日はありがとう。逢えてうれしかった。ひと時あの頃に帰り、銀杏を思い出すことが出来た。帰りにでもよって銀杏にこれからどうすることが私の生き方なのかを問ってみたい。あなたとはもう会えないかも知れない、どんな立場いても、時間のなかにいても、大地を踏みしめる生き方をしてほしい」
 彼女はじっと見つめていた。そして、省三の胸に飛びこんで来た。
「私たちはなぜもっと早く逢えなかったの、私はこれで終わりにしたくない」
「いつか、別れに泣くより出会ったことを嬉しくて泣くと言うようなことを書いたことがある。生きる場所、時間は違うけれど、その存在は私には嬉しいことなのです。お元気で…」
 その時彼女は顔をあげて、
「悔しい、くやしい」と叫んで唇を奪った。

 それから省三は皆に黙って会場を後にした。時間と言う空間が一挙に縮まり過去へさかのぼったという事を思った。だが、現実として時間は今の時を刻んでいることに変わりはなかった。
 冴子から手紙が届いたのはもっと後になってからだった。

     2

 省三は相も変わらぬ生活をしていた。
あれから冴子からは何通か便りを貰っていた。
文化庁の要請で日本の演劇を世界にと言う事である団体を設立させるための委員になった。篠田監督の映画の仕事は時間を見て参加していた。子供たちに演劇を通して人間学を教えたいと言う事で、台本を書き公演をしていた。また、新聞に小説を、コラムの連載も始めていた。
 これでは東京にいることと差異はないと嘆いたものだ。
 東京へはもう行きたくないと言う拒否する心があったが責任と言う名の下で行かなければならなかった。
 会合が終わり、ふらりと銀座のマリオンのまえをあるいていると、省三の前に立ちふさがった女性がいた。冴子だった。彼女は十人くらいの友をひきつれていた。
「今日はここで解散、ここで偶然に私の初恋の人に逢ったのですから、ごめんなさいね」
 冴子は皆に声をかけた。取り巻いていて女性たちは歓声をあげていた。女性たちはてんでに囃子なから挨拶をして別れて行った。
 冴子は私を見つめて、
「なにも連絡を頂いていませんけれど、来るのでしたら教えてほしかった…」
と少し皮肉を言った。
「突然のことで・・・」
「嘘、逃げているのでしょう。今日は私がご案内をさせていただきます。それでよろしゅうございますね」
 戸田冴子はしっとりとした和服で身を整えていた。その装いから強引な言葉が出るとは思っても見なかった。
 省三は東京には何年かぶりだった。これから五年間は上京をしなくてはならない。その間の準備期間ののちに財団法人として組織化されることになっていた。そこで役を降りようと思っていた。
 逃げるのではない、逃げていたのでもない、人が巡りあうと言う事は常に偶然が差配していた。それは省三の人生にとっては幸いなことが沢山あった。
 戦後の混乱の中で野球少年を経て映画少年になり、それが高じて物書きの道へと進んでいったのだった。そこには常に偶然と言う出会いが用意されていた。なぜかそれに日本を代表する先輩は優しく手を差し伸べてくれた。そのころには映画産業は衰退しつつあり代わりにテレビが娯楽の座を占めるようになっていた。それに拍車をかけたのは高度成長で所得か倍以上になっていた。国民は其の成長に酔っていた。
 そんな中省三はさしのべられた手により導かれていった。
「そんなに時間はないよ、七時のぞみにのることになっている」
「そう言って、身をひるがえすのですね。何も食べてしまうと言うのではありませんわ。ただお話がしたくて、この前のように色々と…。新幹線、なんでしたらご一緒させてもらえませんか」
「そこまで…。ああ、朝倉先生も会合に参加されておられたので少し話しておきましたよ」
「ありがとうございます、約束はきちんと守っていただきまして」
「それしても、こんなところで立ち話もなんですから、とこかへ・・・
「私は構いませんことよ、ここでも」
「見る人にはどのように映るのだろうか…」
「こどものころの思いを抱いた二人が偶然にマリオンの前で出会う・・・」
「そんなロマンチックな事を想像するだろうか」
「行きましょう、お座敷、それともラウンジ、どちらに・・・」
「あなたに任せるよ」
 省三は冴子に連れられてホテルの最上階のラウンジに案内された。眼下に広がる林立した高層ビルを眺めながらここだけが時間の速さを感じていた。其の速さについていけないと田舎に帰ったのだ。この町の中で暮らしていた時の事を思い出していた。浅草寺の境内にはどんぶり屋がひしめいていて、一杯三十円で売っていた。表通りには喜劇小屋が軽演劇をやっていて、僅かにはなれたところにはストリップ小屋が立ち並んでいた。雑踏は人人人の波だった。あの頃が浅草の最盛期だったのかも知れないと思う。其の浅草も今はきれいに整備されあの当時のにぎわいを見せているが省三には隔世の感があった。
「何を見ていらっしゃるのですか。懐かしんでおられる・・・。いいえ、こんなになぜに変わったかと腹を立てておられるのでしょう」
「ああ、この町を私は逃げた、人間の心を拒否されているように思ったからかも知れない」
「すっかり、そのなかで泳がされています。汚れ失っていくことが分かっていながら逃げられない弱さを悔やんでいます」
「あなたは、強いから。いいえ、女性はとこに居ても其の場所に順応する生き方が出来るから…」
「男は駄目だとおっしゃりたいのですか・・・」
「そう思った、人波から逃避したかった。何もかも捨ててやり直すために・・・」
「あのひょうきん者ではにかみ屋の面影を思うとなんだかおかしく感じられます」
「時間、生きた時間がこの私を作ったと言えます」
「なにを召し上がられます、何かオーダーを」
「会議で軽く頂いたから・・・」
「シャンペーンかワインなんかどうでしょう」
「今は辞めています。コーヒーでも頂きましょうか」
「私、存じあげていますよ。銀座や築地などで豪遊されていた事を・・・」
「そんなこともありました。もう遠い昔…先輩に連れられて
良く行って酔いつぶれたものたでした」
「酔いつぶしたい。私も酔いつぶれたい」
 オーダーを取りに来たウエイターにワインとコーヒーをたんのだ。
 冴子はワインを口にしながら、
「あの頃は一日がとても短く感じて、楽しくて幸せな時間が流れていました。ただ学校で見ているだけ、時に帰りにすれ違うだけ、その事がとてもうれしくて・・・あの時間に帰りたい」
 しみじみと言った。
 この都会の喧騒の中では心が休まる事はなくてついつい昔を思い出すのだろうと、自分の思いと.重ねていた。
 高校は、冴子は女子高へ通い省三は進学校へ通った。道はそこから離れて行った。
「父の転勤で高校半ばであの土地を離れました。こころを
そこにおいて…」
「偶然がそこに用意されていたという事なのかな」
「悔しい、もっと早くお会いしたかった。美しい姿を見てもらいたかった。きれいな体を見せたかった」
 ワインを口に運びながら目に涙を浮かべていた。
「女性は何歳になっても美しい、人生を蓄積した姿があるから輝いている。年齢とか、肉体とかは其の基準にすべきではない。もっとも美しいのは妊婦のその姿だ。其の様に書かれていましたが、本当にそう思われていますの」
 少し酔ったのかなめらかに絡むように言った。
「おもわなかったら書けません。わたしには・・・」
「では、私も美しく映っていますか」
「ああ、あの頃の面影を残した頬と瞳は・・・。そして、今がある其の御苦労も心に蓄えていてそれがより自信となって・・・」
 省三は言葉をそこで終わらせた。それ以上の事を口にする事を憚られた。それを言う事は彼女を認めていることになるからだった。
「うれしい、このような歳になってときめいて、それがまた悔しいのです。なぜ、先生のところに押しかけなかったのかと後悔しているのです。・・・もう、こんな歳になって・・・
欲しい、とても欲しい…」

 省三は帰路についていた。予定通りの計画をそのまま実行していた。新幹線の座席に身を沈めて色々な事を考えていた。
冴子に答えを出してやることは出来なかった。その訴えはある程度心を動かすものではあったがそれに乗るほどの勇気を持っていなかった。だが、平常心ではおられなかった。こころは熱くなり欲望は確かに息づいていた。人間としての本能を否定はしていなかった。それを抑えたのは理性であった。
「あなたの気持に答えたら、今までの思いもきれいなものから汚すことになる。私はあの世界にいてあらゆる誘惑に負けなかった、それだけが人間としての理性だった。本能におもねる人達の中でそれはそれとして認めながらも私には出来なかった。この前の時に再開してあなたの存在を認める心があった。あなたが歩んだであろうことの辛苦を知っている。其の中で泳ぎきるものだけが成功を手にすることも。まず、その今の立場を崩さないことが重要にも思える。スキャンダルの中に身を置いて前途を無駄にしてはいけないと考える。
それでもいいと言うのなら少し時間が欲しい、一時の感傷で欲望に走ることではなく、破滅的な愛ではなく・・・。私があなたを本当に幸せに出来る立場になったら、今度は私から奪うだろう」
 省三は、都会の中で洗練された美しい女性にそんな言葉を投げていた。
「わかりました。少し感情的になり、一方的に思いを告げたようです。・・・でも、私はだいて欲しい、抱かれたい、其の思いは消える事はありません。もっと沢山お話をさせていただいて、私を抱きたいと思われるような女になって・・・その時には・・・。時間、偶然、人が出会うときにはそれらが応援してくれていると思っていました。だけど、もっと偶然の時間を繰り返さなくてはならないと言う事を今考えています。こんな私をお嫌いにならないで下さいね」
 冴子は何か憑きが落ちる様に冷静になっていた。が、ハンカチで目頭をぬぐっていた。
「文化庁に私が出席をするのかと言う問い合わせがあったと言っていた」
「はい、私が尋ねたのです」
「もうしなくていい、私がその時には連絡を入れます。来月の半ばごろになると思う」
「会場のあたりを、弟子の人達とうろうろとしていました。マリオンの前でようやく探し当てましたの、その時間はとても楽しい時間でしたわ」
「下手な役者だ…。でも、今日、逢えてよかった…」
「その様に思ってくださいますの」
「私は人と出会う事を一番に大切にして来ました。明日の予定を変えてもいいと思ったけれど・・・」
「だったら・・・」
「あなたを大切にしたい、一時の本能に玩ばれたくない、これは大人の知恵、理性と言うやつで、だんだん臆病になるものだ」
「この前に奪った唇の感触がまだ残っています。男の方の理性と女の理性は違うと書かれていましたが・・・」
「そんなことを、若かったころに書いています。男の理性は受動的になり、女の理性は能動的になる。男より遥かに動物としての本能を持っているという事でしょう。でなかったら人間は絶滅していますから」
「なんだか、分かるような気がします。女は強い男を欲しがります」
「オスを選ぶのは常にメスです。この前にどこかに書いたけれど、古代にオスが全然メスを求めなくなった時期があります。其の時に人間は絶滅の危機にあったと言えます。メスが考え悩んだ末に、唇を赤く塗ることだったのです。そこで絶滅が免れたという事です。つまり、今でも唇を朱に引くのは男を意識しているという事なのです」
「そんなこと、…考えてみますとよくわかります。女が唇に朱を載せるのはもとめていると言う証しなのだということは・・・」
「少し下卑た事を言いましたか、この世の中には男と女がいて種の保存のために戦ってきたという事でしょう」
 冴子は目をきらきらさせて聞いていた。
「先生、少し付き合って頂けませんか、泣いたので化粧が崩れてしまいました。化粧室まで連れてって下さいませんか」
 冴子は何か訴えるように言った。
 省三は立ちあがって化粧室はどこかとウエイターに聞いた。
 省三は冴子の前を歩いて案内をした。
 冴子をその中に導き踵を返そうとした時、
「先生、約束の証拠に・・・」
 冴子は省三を引きこんで、しがみつき唇を重ねてきた。
 冴子の豊満な肉脂が省三の胸の中で熱く燃え上がっていた。

     3

新幹線のぞみは定刻に岡山についた。迎えに次男が来ている筈であった。ホームを降りて駅前の広場に出るとそこに車を横づけしてきた。十時を過ぎていた。
「ご苦労様」と声をかけた。
「うん」
 心ない返事を返し車に乗り込んだ。
「昼過ぎにプロデューサーの中井さんから電話が入っていましたよ」
「何か言っていたのかな」
「いいえ、また架けると言っていましたが」
「そうか…」
省三は空返事をしていた、まだ冴子とのことが頭の中に渦巻いていた。
「何かあったの」
「東京は疲れる、何か食って帰ることにするか」
「おふくろさんが何か作っていたようですよ」
「そうか」
車は二号線に光の流れの中に入りスピードを上げていた。省三はウインドガラス映る顔を見つめていた。昨日と今日の顔は違っていた。苦悩の表情が浮かんでいた。それはこれから先どのような時間が流れるのだろうかと言う推測の出来ないものを思うものであった。
 省三は今まで結果が分からなかったら行動することはなかった。それは心を常に平穏に置くという心掛けであった。災いの渦中に身を投げることはしていなかった。
 省三は少し食して書斎に入った。今日の事が頭の中で渦巻いていた。
  この歳になって…。何を戸惑う事があるのか、なぜ毅然と拒否しなかったのか、どうして曖昧な言葉を落として繋がりを残そうとしたのか、冴子が本当に欲しいのか、今まで気づいてきた総ての物が壊れてもいいのか・・・。
 省三はそんな感慨のなかにいて苦悶していた。
  永年連れ添った育子に対してはなにの不満もない、むしろ支えられて生きてきていた。
  省三にしてみれば今までの総てが育子によってもたらされたと言っていいと思える。半分、それ以上育子によって名をなす支えを授けてくれていた。
 東京の生活を捨て育子の故郷へ来たのも育子が都会の喧騒になれることが出来なくて精神的に疲れたという事もあった。省三はその間、何度も東京に出かけ仕事をこなすと言う生活を続けていた。
また、省三自身その業界の人間とのかい離を感じていたこともあった。
  仕事は至極順調でそれに失念していたわけではなかった。
  五十の声を聞いた時に、もういいという考えが芽生えたのは確かだった。その時、東京の生活が何故か馴染めないような感覚にとらわれたのだ。
  パソコンとメールで田舎でも仕事は出来ると言う事もあって、東京から退避した。が、本当のところ総てを捨てて新しい自分を構築したいという希有の方が心に大きく位置を締めていた。
  家人の故郷で、子供たちと青年たちと一緒に演劇を作り、そのなかで今までの自分を振り返り思い返しながら出直す事を考えていた。今までは敷かれたレールの上を走っていたが、今度は自分がレールを引きその上を走りたいと言う願望は前から持っていた。
   
昔し馴染みの友からの仕事は断れなくてこなしていた。
 省三の人となりを知らない人達のなかでは自由になんでも出来ることが、その解放感が新しいもののように思えた。
そんな時、同窓会の誘いが届いたのだった。
 戸田冴子の告白には驚いたが、二人とも五十を超えていることで男と女のこだわりが生まれることなど思いもしなかったのだ。
 五十を過ぎているとは言え、冴子はまだ四十の女ざかりの様な体を保ち色香を見せていた。どのように対すればいいのか思い悩んでいた。事実、冴子が今どのような生活をしているのかも知らなかった。幸せな生活のなかでありながら求めてきているとしたら、こちらとしては慎重さを欠いてはらない。まだ、自分の家庭も壊してはならない、この一カ月色々と考え妄想していたのだった。
省三があるいた世界では反社会的な行為も許されることが多かったが、それに関わった事はなかった。むしろその反社会的な事を一番否定していた省三であったのだが、この心の揺らめきはどうしたことなのかと自分の心が理解できなくなっていた。
都会の生活に疲れた戦士が故郷で癒す、そんな実感を味合うための逃避であったはずであった。そのために何もかも捨てていいと思ったのだ。が、ここにきて突然に降ってわいたような事件に戸惑っている省三がいた。
「省さんは、なぜ遊ばない。歳をとって遊んだら身の破滅、家庭崩壊になるぞ。今のうちにうーと遊んで、歳をとっても動じないように鍛えてなくては世間からすてられるぜ」
 そんな言葉を何べんも聞いてきていた。
 倉敷で色々と忙しく過ごしている間にも、冴子の事は頭の片隅に住み着いていた。
 東京の会議の日は近づいていた。
「今回の会議は時間がかかりそうなので一泊するかも知れない」
 育子に告げるその言葉は淡々としていた。
「どうせなら、少し足を延ばして赤倉温泉にでも行ってきたら」
 育子はそう言って勧めてくれた。
「それに今でも御世話をしてくれる人達に挨拶も忘れないでね」
 と続けた。
「ああ、その事も考えてみる。良寛さんのところにも行ってきてもいいと思っていた」
「信濃川の流れ、今どうなんでしょうね」
 新潟には育子と一緒に行ったことがあった。盲目の女旅芸人の瞽女さと良寛を愛した貞心尼の取材に同行させたのだった。
 そんな会話のなかにも何か省三は引っかかるものがあった。
「なにか心配ごとでもあるの、最近考え事が多すぎるようだけれど」
 育子は省三の変化を感じていた。
「会議に全国から二十五名の日本を代表する演劇人が集まるのだから息が詰まる事もあるのさ。私に手を差し伸べてくれた先輩は鬼籍に入っていて、すんなりと話し合えないことも多いいから…」
「文化庁が後ろにいると言ってたけど、それに拘っているのではないの」
 確かにそれはあった。芸術文化には行政は口を入れてほしくないと言うのが省三の持論だった。
「少しゆっくりとして来なさいよ。こちらは二人の子供達に任せてもいいのではなくって」
 育子のその言葉に省三は後ろめたい気がして聞いていた。
育子はどれほど省三の心を読んでいるのだろうかと言う疑念がわいていた。この心の葛藤は育子への背信なのか、ざわめきは気にしての物なのか、経験のない省三をいら立たせていた。
 
そんな時、省三は子供のころに見上げた駅舎の大きな銀杏の木を思い出すのだ。こころを落ち着かせ正当な判断を導き出し冷静さを求めるための安定剤として思い出すのだ。
銀杏の木に願い誓った事を、何があっても泰然自若として凛々しく幹を伸ばし葉を繁らせ大きく育つそれに敬意を払った子供の頃の純真な心に帰るためだった。彼にとってはそれは神木の様な存在だった。
 省三は問った。どのようにすればいいのかを。
 結論は出ていたがその確信が欲しかったのだ。

 冴子には日時を決め赤倉温泉で落ち合う事を告げた。
それは男と女と言う関係ではなく、あの子供の頃の真っ白な心に帰りたいと言うものだった。それは都合のいい言い訳であることも知っていた。
会議は、これからの日本の演劇を国際的に広げ交流することを勧めると言う事になりつつあった。
省三は上越新幹線の車窓に映る顔を見つめていた。そこには老いていく中年の顔があった。窓の外の風景はだんだんと紅葉を深めて行った。今は東京から二時間もかからずにいけるが、育子と旅をした時には長い道のりだった事を思い出していた。其の旅は高田と長岡の色と匂いを感じ取るためだった。厳しい自然のなかで生きるその強靭な精神を感じ取りたかった。
冴子からは時間の都合をつけて行きますと言う返事があった。それは確定ではなく仕事の関係でいけないこともあると言う事を含んでいた。
 妙高高原、長野と新潟を県境にして古くから温泉地として、また、スキー客を集める場所でもあった。
 省三はホテルではなく、旅館、閑静なたたずまいの場所を選んでいた。丁寧に挨拶をされ妙高が見える部屋へと案内された。座卓にはお茶の用意と菓子が置かれていた。仲居さんが茶を入れて、簡単に宿の仕来りをかたった。
 省三は障子をあけ妙高を眺めた。すっかり紅葉は全山を赤く染めていた。
 この風土が瞽女さを育て、良寛を生かした土地、環境は厳しく未来より明日をどのように暮らすかを考えなくてはならなかった事を思った。この両者はそのなかで何を見て、感じて、いたのだろうか、それは前に訪れた時にも感じ物語として書いたものだが、共通している事は霊魂を感じ取ることが出来る天分を備え持っていた事だった。この土地の風土が恐山のいたこを生んだという事だ。瞽女さの三味は流れて津軽に三味を広めたいと言う事だ。其の音は人の心のなかにしみ込んで幻想の世界へといざなうものだ。妙高には古くからの沢山の伝説が遺され、親鸞がここを浄土真宗の聖地として定めたところだ。それらは総てがこの風土に由来しているのだ。省三は想いを巡らせていた。
 親鸞はここで恵心尼と出会い布教進めながら沢山の子をなしていた。良寛は晩年に貞心尼との熱い時間を過ごしていた。この風土は省三にとって自然と受け入れられることころだった。住んだ人達。住んでいる人達の息吹を感じ、色と匂いを受け止めることのできる場所だった。
 省三は越後が好きだった。
 
何か人の気配を感じた。振り返るとそこには冴子が立って見つめていた。
「私の方が早いと思ってたのに・・・。何を考えていたのかしら、話しかけるきっかけも否定されているような雰囲気だったわ」
「仕事は・・・」
「言わないで・・・」 
 冴子はそう言って省三に縋りついた。
「遠回りばかりしていたわ、小学校の時に今日を予感していた。あの銀杏に心の内を語っていたの。どれだけの時間がかかってもきっと私はあなたの胸のなかに入るって…」
 冴子は切なげに見上げて言った。
 省三ははっきりと銀杏が見えていた。夕日に真っ赤に染まる銀杏の姿を見つめていた。
「何か言ってくれないと、なんだか私一人がからまわりをしているようで・・・。私は今十八に返っています、高校は違っていたけれど心は何時も一緒でした。遠くで眺めていました。父の転勤で大阪へ、そしてデザイナーの勉強のために東京へ、そこで一度逢っているのです。デザイナーの卵として先生のおともで出席したその会場で、名前はペンネームでしたが、すぐ分かりました。先生の手前もあり近づくことも出ませんでした。…あの時何もかも捨てる決心がついていれば・・・。あの頃の若くて美しい私を見てほしかった、汚れない体を抱いてほしかった、あなたは気づいていたのでしょうか・・・」
 冴子の心情の吐露が省三にはまぶしかった。
「知らなかった、小さい頃のゆきずりの人、私はその運命を感じてはいなかった。私は何時か書いている、女性は歳をとる、その間の生活がより美しく輝かせることを。あの頃と少しも変わっていない。私は冴子を見るときまぶしかった。それは恋とか愛ではなく、憧れだった。私は冴子を銀杏のように神々しく眺めていた。それだけで心は満たされていた。出会いが、すれ違いが、私たちの運命だと思っていた。だが、その運命は奇跡を作りまた出会えた・・・」
「一人前のデザイナーになって、それはあなたへの過程であったと今は思えるのです。こうして、あなたの好きな場所、妙高高原で逢っている、その事に感謝しているのです」
二人はそれから黙って抱き合っていた。
省三は抱擁を解いて窓辺に立ち山並みに視線を投げた。
「銀杏、銀杏の木はオスとメスがあると言う事を知っているかな」
「ええ、知りません。まるで動物のような…」
 冴子は省三の傍に立って言った
「あの生命力はそこから生まれていた。実を付けるには花粉を虫が、鳥が、風が運んでくれる事が必要だが、銀杏はオスの出す花粉が何十キロと飛散して交配する。銀杏のメスはそれを受け止めてギンナンの実を付ける。其の実が種となり繁殖していく。生物の総ては繁殖するためにさまざまな方法を生みだして命をつないでいる。それはただの偶然を求めての旅になるのだ。紅葉は落ちて朽ち腐って腐葉土になり次の苗木を育てる。人間の遺伝子の継承も、昔はお尻の大きい女性が求められたものだったが。そんな事を考えている・・・」
「なにがおっしゃりたいのですか・・・」
「銀杏の生命力と人間のそれを比べると…」
「人と出会い、愛し、愛した人の子をうむ…」
「愛する、と言う束縛で、結婚制度が出来た。それが…」
「私が住む業界には現代的な人も沢山いて、恋愛の自由を提唱するかのように振る舞う人達も多くいました。が、私は、それが出来ませんでした。私は銀杏のように岡山と東京と離れていても受粉の交配を願っていましたから…」
「冴子らしい、銀杏のせいにして」
「いいえ、所為にしているのはあなたです。二人の思い出のなかには銀杏が存在しますが、私はあなたに開いてもらうために待ち続けていました。強引な行動や言葉はその思いから出ています。男の人との遊びがないからなのだと理解してください。あなたの家庭を壊そうと言う事は思ってもいません。ただ、二人の思い出、今まで保ち続けたことの清算をしたいのです。其の後の事はあなたしだい、私にとっては浮気などではありません。純粋に愛なのです」
「後の事は私に…。重い選択になりそうだが…」
「一度でもいいのです。あなたをこの体で覚えることができれば、これからの私は生きて行く甲斐が生まれるのですから」
 省三は冴子の肩を優しく抱いた。

 その後も東京に出向いたが、冴子からは何も言ってこなかった。
「夢だと思ってください」
 冴子はわかれにそう言った。その事がなにを意味するのかは省三も理解していた。
 遠い海で漁をするために灯す明かり、それは泡沫の夢を作るための舞台の明りだったのか。
 それからの冴子がどのように生活をしているのかは知らない。
 省三は夢のなかにいたと思う事にした。


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